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街「京はいにしえ―大文字 五山の送り火におもふこと」


いにしえ、とは本来、自分が生まれていない遠い過去のことを言うらしい。
65という齢を迎えた私にとって、幼少期を過ごした京都の思い出は、その意味のごとく、
はるか彼方のこととなった。

8月16日、今日は五山の送り火。
60数年前、私たち幼い子供たちは「大文字焼き!大文字焼き!」と
無邪気にはしゃいでいた。
いや、まわりの大人たちから「五山の送り火」という言葉を聞いた記憶もない。

0405.jpg
■生家の前の小道、その向こうには京都タワーが聳える

私の生家は国鉄京都駅の北側、七条新町にあった。
物心がついた1950年頃、まだ東京や大阪が大空襲によって焼け野原であった頃、
空襲を免れた京都では、そんな光景を目にすることは無かった。
けれども、家の隣は「洛陽ホテル」という進駐軍の専用ホテルだった。
戦争に負けた、という生々しい事実がそこにあった。
04052.jpg
■その建物、現在は関西電力の社屋になっている

小さなミカン箱
貧しい時代だった。
我が家の2階に暮らしていた親戚の新婚夫婦は、生まれて間もない赤子を失う。
貧弱な医療環境、厳しい食糧事情であったが、子を生し家庭を築こうとする想いは、
今の人々の百倍は強かった、のではないだろうか。
幼子の眠る、棺がわりの小さなミカン箱にとりすがる若き母親の後ろ姿は、今も目に
焼きついている。

おじさん家のトースト
貧しさが等しく降り注いでいたわけでもない。
我が家の裏手に住んでいた中年夫婦の朝食は、コーヒーと食パンにバターをたっぷり塗った
トーストであった。
60数年前の私には、それがいかなるものかわからず、それでいてとても洒落た食べ物であることだけは
感じていたようだ。
食べたかったわけではない。
焼けた食パンにバターを塗り込める、カップに黒褐色の液体を注ぎ込む、その光景が見たくて、
よそ様の家に上り込んでいた。
どんな出自の人たちか、ついぞ知ることはなかったが、アルところには有ったのだ。

となりのオテラ
心貧しかったわけではない、多分。
ある日我が家に、東本願寺のぼんさん(坊様)が二人やって来た。
その頃私は近所の友達と二人で、お東さんの上(かみ:北側)にある大谷保育園に
通園していたのだが。
ぼんさんらは母親に、本願寺の境内を抜けて保育園に行かせないよう言い置いて
帰って行った。
僕たちは、お東さんの前の大通りを通らず、毎日、境内を横へ横へ、上へ上へと抜けて行ってたのだ。
天皇さんが使わはる「菊の門」横の止め格子も、僕らはするりと通り抜けてしまう。
どうもこれがマズかったようだ。
この素敵な通園路を使わなくなったワケは、ぼんさんに言われたからではない。
ある日この路で腐ったギンナンの実を踏みしだいてしまった。
以来、その臭いが私の脳に記憶されてしまったからだ。
その後、居酒屋でギンナンを注文できるようになるまでには、50年の歳月を要した。

ぼくらの遊園地
貧しさから生まれた知恵か悪知恵か。
我が家から歩いて5分ばかりの河原町通り沿いに百貨店があった。屋上には定番の遊園地があった。
当時は丸物(まるぶつ)百貨店で、それが近鉄百貨店となり、今はヨドバシカメラになっている。
一通りの遊具があったけれど、僕らのお気に入りは飛行塔と丸いプールを廻る四人乗りの
クルーザー(?)だ。
残念ながら、飛行機は地上すれすれにしか飛べないし、ボートはあえぐように、ゆっくりとしか進めない。
なぜなら、閉園後の夜間で電源が切られているからだ。自分たちで押したり、引いたりするしかない。
僕らは夜な夜な建物の外側の階段を登って、秘密の遊園地を満喫していたのだ。
ある夜、その階段の前まで行くと、鉄格子の扉に大きな南京錠が掛けられていた。
貧しい僕たちの遊園地はこうして消えて行った。

ボッボッぼくらは少年探検隊
みんな~、歩調をとれ~
七条通りに出るぞ~ 
それから真っすぐ、鴨川渡って、京阪電車の踏切超えて、三十三間堂の前通って
智積院さんの脇道から、東山へ突入!
貧しくても僕らは元気だった。
道なき道を分け入って、漆にかぶれ、突然の夕立にうたれて、
そして、枯れ枝一本背にかつぎ、夕日を追いかけるように我が家をめざした。


「五山の送り火」の起源は宗教行事として、平安時代とも江戸時代ともいわれるが、昨年の、
放射能の薪拒絶騒動を見れば、これが単なる観光行事に過ぎないことがよくわかる。
「そんなもん焚いたら、どっからもお客さん来いしはりまへんえ」
いったい誰の一言が、京都らしいと言えばいかにもの、底意地の悪い出来事を
現出させたのだろう。

私はよく、大文字焼きの日と知らずに、寺町にある天寧寺へ墓参りに出かけてしまう。
出町柳駅でそれと気づいて、その人出に恐れをなし、先祖の供養もそこそこに、
大阪へと逃げ帰るのである。

いにしえ京都の思い出はせつなく、
今時の京都の出来事はやるせない。
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プロフィール

テッペン爺

Author:テッペン爺
昭和22年(1947年)
京都に生まれ、
芦屋に育ち、大阪を経て
現在は芦屋に在住。
身長178㎝ 体重75㎏
販促企画のプランナーとして
適度に活躍(?)して33年。
現在に至る。

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