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音楽「最近、良いコンサートに出会ってないなあとお嘆きの諸兄へ」

1970年後半から1990年初め頃まで、かなり濃密にコンサートに出かけていた。
なぜかと言うと、私が担当していたクライアントの部長が、某大手代理店D通に顔がきき、おおむね前から5番目くらい迄という極上チケットが、タダで!手に入るというすごいアドバンンテージがあったからだ。
D通の担当が、わざわざ大阪城ホールまでチケットを渡しに来てくれたこともあった。クライアントのご威光や恐るべしである。
この担当者は今や、局長だ。たまに某所でチラと見かけるが、なるべく近づかないようにしている。
ちなみに、得意先の方の部長さんは、根っからの演歌オヤジで、自分がどれだけすごいミュージシャンのチケットを私にプレゼントしているか、全くわかっていなかった。

それにしても、この頃のコンサートは印象深いものが多かった。
あ、このあと長いです。

ジェネシス <フィル・コリンズはお茶目だった>
1977年、初来日。この時にはもうピーター・ガブリエルはいなくて、フィル・コリンズがメインであった。プログレッシブの雄、そのパーフェクトな演奏技術にはただただ驚くばかり。技術と言えば、電子制御の照明システム、バリーライトもこの時初めて目にした。今どき珍しくもないけれど。P・コリンズがメモをたどたどしい日本語で読み上げ、曲紹介をしていたのがご愛嬌であった。

ZZ TOP <テキサスの男たちは寡黙だった>
1987年アフターバーナー・ツアーで初来日。私の愛してやまない、ロック!カントリー!ブルースバンド!だ。ブログタイトルが彼らへのオマージュであることは言うまでも無い。ギター、ベース、ドラムの3人で、あとは打ち込み。何十年変わらずこのメンツで、華麗なステージはまるで三波春夫だ。(わかるかナ)
彼らの曲はフリーウェイを行き交う長距離トラックの運ちゃん達にこよなく愛されているので、ドライビングロックと称されている。なので、ステージには巨大なカーオーディオのセットが出現し、その上でグゥイングゥイン。ギターを弾く姿はまるで歌舞伎の「見栄」だ。ただし、それ以外の部分では、愛想の無いコトこの上なし。MC無し、アンコール無し。テキサスの男は媚びないのだ。日本での単独コンサートは後にも先にもこれっきり。このコンサートは終生、私の自慢のタネだ。(知らない人には、なにが何だか・・ではあるが)
http://www.youtube.com/watch?v=0_EFdod4YDo&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=KLUl8xkKSTk

ミック・ジャガー 〈これは、ひょっとして私のせいだったのか〉
1988年に単独で来日し、東京、名古屋、大阪でコンサート。
私はあまり興味が無かったのだけれど、知りあいの女性が熱烈な彼のファンということで、付き添い状態で大阪城ホールに出かけた。この日、ステージ奥には巨大な
ウイング型の花道がしつらえられていて、その両端は2階席の端近くにまで及んでいた。
我々の席も2階席でこのウイングに最も近い場所にあった。これが、後に恐るべき(?)状況を生み出す原因となった。唄いながらウイングを登って来るM・ジャガー。
私の「行け~」の一言で、弾かれたように席を立ち、2階席から大きく身を乗り出し、手を差し出す彼女。なんと、M・ジャガーも手を差しのべてくれて、あと十センチもあればという状態になった。彼女が大満足であったことは言うまでも無い。そして、翌日、彼女はまたしてもこのコンサートに出かけて行った。(今度は立ち見で)
彼女から短い報告があった。「今日は、ステージにウイングがありませんでした」

ローリングストーンズ 〈危ねぇだろ!チャーリー・ワッツ〉
1990年、今度はローリングストーンズとしてやって来た。会場は東京ドーム。M・ジャガー、キース・リチャーズ、チャーリー・ワッツ、仲の悪さではとびきりの3人を、怖いもの見たさで東京まで出かけて行ったような気がする。実はあまりよく覚えていないのだが、ひとつだけ、印象的な事があった。C・ワッツの投げたドラムスティックが私の耳をかすめてものすごい勢いで飛んで行ったのだ。危ねぇだろ!と思いつつ、反応できなかった事が悔やまれる一瞬であった。

エリック・クラプトン 〈ツアー最終日、クラプトンはご機嫌にもほどがあった〉
数えればきりがないほど彼のコンサートには出かけているので、語れば、これまたきりがない。クラプトンのすごいところは、理由(ワケ)ありのビッグプレイヤーを何気に日本に連れて来ることだろう。1988年には、当時私生活がらみでどん底にあった、エルトン・ジョンを、そして、あのダイヤストレイツのマーク・ノップラーを連れて来た。なんたるぜいたく。人柄ゆえのつながりが広いというか、自分自身にいろいろあった分、他人への思いやりも深いのだと思う。
1991年には、ジョージ・ハリスンと、日本だけでジョイント・ツアーを行なっている。ジョージの病状がわかっていたクラプトンが、わざわざ日本に連れて来たのだ。ジョージは、もうほとんど声が出てなかったけれど、名アルバム「クラウド9」を中心に熱唱し、とてもハートウォーミングなコンサートであったと記憶している。時を経ずして彼はこの世を去った。
いつのコンサートだか忘れたが、ツアー最終日の大阪フェスティバルホール。例によって私の席は会場最前列。で、城ホールと違い、ここはステージが間近だ。
この夜は、最終日ということもあってか、クラプトンはかなりリラックスモード。
よく喋るし、ギターのアドリブもスゴイ。が、だんだんそれが長くなり、そのうち、しつこくなり、最後はピック投げまくり。で、私を含め、周辺の人たちがヒソヒソとささやきはじめた。「あれ、なんか匂うね」「ウィスキーちゃう?」・・・
酔っ払いクラプトンの迷演奏に出くわしてしまった。なんたるラッキー。
日本大好きクラプトンはこのころ、滞在しているホテル(大阪・福島区)の近くにあった「靴下屋」がいたく気に入って、ブリティッシュ系のミュージシャンに吹聴したらしい。M・ジャガーもP・コリンズも、スティービィー・ワンダーも来たと聞いている。

2000年以降、つまり21世紀になってからは、コンサートに行く機会はとても少なくなった。

それでも、数年前のエンニオ・モリコーネ。これは圧巻であった。オーケストラに二期会合唱団100名(たぶん)を従え、老体に鞭打って、ムチのようにタクトを振りまわすマエストロ―モリコーネにいたく感動した。

最近の状況はと言えば、
大好きな高橋真梨子のコンサートはチケットがかなり手に入りにくく、会場はシニアのカップルで埋めつくされている。
生まれて初めて行ったディナーショーが小椋佳というのはほとんどギャグだ。
あ、マドンナ行ったな。タダで連れてってくれる人がいたので。
サイモン&ガーファンクル。それなりに良かったけれど、コンサートが終わって、会場の京セラドームからすぐそばの地下鉄のホームにたどり着くのに、1時間もかかってしまった。こういう目にあうとジジイはますますコンサートから遠ざかっていく。

さらに言えば、かつてのような、かぶりつきの極上席を経験してしまうと、自力で調達した、オペラグラスと巨大スクリーン頼みの、遠~いシートでは物足りないのだ。


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音楽「ひばりファンの知らない、ひばりの傑作アルバム」

前回のテーマに続いて、誰も知らないシリーズその2、という訳ではないが・・・
美空ひばりがこの世を去る少し前、芸能生活40周年を記念して「旅ひととせ」というアルバムがリリースされた。
その全楽曲の作詞、作曲が小椋佳によるもので、
一人の男性が、愛する人の住む東京を離れ、日本をぐるりと巡って彼女の元に
帰ってくるという物語になっている。とてもコンセプチュアルなアルバムで、当然のことながら、ありきたりの演歌の歌詞に地名をくっ付けただけの安易なご当地ソングでは無い。

彼はこんなふうに、日本各地を訪れる。
3月「岩燕」東京  4月「早乙女」清水  5月「紫陽花」大津 
6月「花茣蓙」淡路島  7月「国比べ」鹿児島  8月「初蜩(ひぐらし)」唐津 
9月「萩の賑い」萩  10月「太鼓」輪島  11月「おしょうしな」 米沢 
12月「函館山から」函館  1月「風花便り」北上  2月「帰心」水戸
その地にすむ人々の暮らしの機微を鮮やかに描き出し、主人公の思いの中に浸み込ませ、
聴く者をその世界に誘う。
当然のことながら、小椋佳ならではの、人を想う珠玉の言葉がちりばめられている。
東京へ彼女の元へ帰ろうという思いを込めた「風花便り」のサビは秀逸だ。

君ただ一人と知る迄の道
ほの暗い道 九十九折り
君ただ一人と知る今は
思い出 絹の綴れ織り

もし、「おしょうしな」がカラオケにあったら私は唄えません。出だしから泣いてしまうから。(幸いにも、カラオケにはありません) 

美空ひばりは、われわれ団塊の世代にとっても印象深い存在だ。
実のところ、好き嫌いで言えば、彼女のパーソナリティや母親にまつわるさまざまなエピソードによるためか、好感を持っていたわけではない。
そのくせ、子供の頃は、東映の時代劇なんぞはよく観に行っていたし、歌を口ずさんだりもしていた。
その並々ならぬ歌唱力と実績は、日本の最も偉大な歌手に位置づけられる。

さて私が、このアルバムを「ひばりファンが知らない」と断ずるのは、収められているすべての楽曲が、本来のひばりファンが求めているであろう世界とは大いに異なるためである。
その歌詞は、難解な言葉を連ねているわけではないが、演歌とは違うコトバが巧妙に構成され、倒置的だ。情の部分を検知するのがけっこう難しいと思う。ひばりをひばりらしく楽しみたいファンにとって、あまり興味の湧くアルバムでは無いのだ。

そして、当のひばりご本人であるが、なんと、
いかなる曲も我が物としてきた、この世界有数にして日本一のヴォーカリストが、
小椋佳の世界観に戸惑い、迷いつつ唄っているのである。
少なくとも、私にはそう見えた。
ひばりの歌手としての人間臭さを垣間見た思いがしたのだ。
聞き苦しいわけではない。充分に心地よく、立派な完成品である。
それでもなお、ひばりの手に余るものがこの世に存在したのだ、という感慨が
私の中に沸々と沸きあがってきた。
この時点で私の掌はクルリとまわり、私は美空ひばりの大ファンとなった。

ひばりがこの世を去って間も無い1990年10月に、小椋佳は追悼盤として同じタイトルでアルバムを出している。実は私は、追悼盤とも知らずに、こちらを先に聴いていた。このアルバムのいきさつを知った私は、無性にひばり盤が聴きたくなり、捜しに捜した。当時はネットで捜すこともままならず、結果、ひばり盤「旅ひととせ」を入手するのに三年を要してしまった。
正直のところ、比べてみると総合訴求力では小椋佳に軍配があがる。自分で作ったのだから、歌詞への理解度は深いし、彼独特のやわらかな歌唱がマッチしているからだ。
さらに言えば、彼女に対する畏敬の念と、アルバム曲が提供できた誇らかな気持ちが漂っているせいでもあろう。
このアルバムには初回限定で、ひばり追悼の曲「時を連れ、想い残して」が収録されている。
小椋は唄う。

誰もが仰ぐ 美しい空を
誰より高く ひばりが飛んだ

りんごの花びらが~
(挿入歌 リンゴ追分)

これまた、涙する曲である。

                            ※歌詞引用につきましては、JASRAC様お目こぼしを。



プロフィール

テッペン爺

Author:テッペン爺
昭和22年(1947年)
京都に生まれ、
芦屋に育ち、大阪を経て
現在は芦屋に在住。
身長178㎝ 体重75㎏
販促企画のプランナーとして
適度に活躍(?)して33年。
現在に至る。

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